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(・∀・)

どもっすー。だんだん暑くなって来ていますが、今年も昨年のような暑い日々が続くんでしょうか?
Watch Dogsで街をウロウロしているだけで未だにストーリーを全然進めていないねこまるです。そういえばアサシンクリード4も自分的にはラム酒商人の商売記だったなあと・・・。(;・∀・)

さて、今回はTropes VS Womenの3回目で最終回となります。 どのように最終回をアニタ・サーキシアン氏がまとめるのか、興味深くキャストを観て行きたいとおもいます。 毎回書きますが、この記事はいかなる団体や個人をも批判する意図で書かれてはいません。そしてゲハな書き込みは問答無用で削除を行います。




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今回は今までとは違ったものを見て行きましょう。ゲームで、男女のステレオタイプな役割を入れ替えたものはあるのでしょうか?
ヒーロー的な女性が冒険に旅立ち、悲劇の男性を助けるものが?
はい、それは確かに存在します。
けれども女性が主人公として活躍するゲームは元々少ないどころではないし、女性が男性を助ける為に冒険を行うゲームは非常にレアです。

私の動画シリーズの最初のエピソードで、ピーチ姫自身が2Dプラットフォームゲームの主人公になったと紹介したゲームがありました。そのゲームは”スーパープリンセスピーチ”と言い、2006年にDSで発売されました。

このゲームの前提は単純にこのフランチャイズのやり方を男女逆にしたもので、クッパがマリオとルイジを攫い、ピーチが彼らを助ける役割を負うものです。
やっと、13回も別のスーパーマリオのゲームで攫われまくった後、ピーチがヒーローとなる事が出来たのです。しかし、あまり喜ぶわけには行きません。それ以外のこのゲームの中身は、性的なステレオタイプで満ちているからです。

任天堂は新しいゲームプレイのメカニックをピーチに用意し、プレイヤーは4つの特別なパワーから選んで使用できます。そしてそのパワーが何だかわかりますか?彼女の感情の変化です。

そうです。ピーチのパワーは彼女に抑制の出来ない、ヒステリックな女性の感情なのです。

ピーチはかんしゃくを起こして敵を焼き殺す事もできます。涙は敵を流してしまいます。本質的に、任天堂はPMSジョークをゲームプレイのコアなメカニズムに採用したのです。これらが悪い見本に十分なだけでなく、ピーチはゲーム内のどんなカットシーンでも注目されておらず、変わりにパラソルの、実際は呪われてしまったペリーと言う少年のバックストーリーが語られます。

ピーチが自分のゲームの主役となるのは非常に喜ばしい事ですが、この悲劇の男性の物語は軽いジョークやニッチなマーケット向けのノベルティー物だと感じられずにはいられません。


まあ、このゲームには女性は怒る権利があると思いますね。(;´Д`) いくら何でも男同士の酒飲みの与太話にでてくる内容で子供向けゲームを作ったのは酷いとしか言えません。これが男女逆だと考えると、マリオが下半身のモノに響く要素、例えばエロ本とかを使用して攻撃!みたいなもんでしょうか。こんな企画を出したディレクターも、通した任天堂も狂っているとしか思えないんですが、これが70年代や80年代のゲームではなく、2006年のゲームなのにびっくりしました。


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同じような男女の役割を逆にしたプロットデバイスは色々なゲームで使用されています。その中にはゲームボーイで発売されたBalloon Kidではアリスがいなくなった弟を助けなければなりません。Kya: Dark Lineageのストーリーはカヤの兄弟のフランクを助けることに基づいて作られています。Primalではジェニファーがデーモンの住処に攫われたボーイフレンドのルイスを助けに行くストーリーです。私の最愛のゲームであるBeyond Good and Evilでは、ジェイドの叔父のペイジは冒険の一部で囚われの身となっています。

これらのゲームが有名なTVショーのBuffy The Vampire Slayerの放送時期に作られたのは偶然ではないでしょう。このTVシリーズは”ガールパワー”のトレンドをマスメディアのエンターテイメントで牽引した作品となり、1990年の終わりからから2000年の初頭にかけて大きくなりました。もしくは、覚えている人もいるかもしれませんが、TVシリーズのCharmedやSabrina ht Teenage Witchやイギリスの大流行したポップグループ、スパイスガールズも色々な形でこの現象を象徴しました。

過去十年でゲーム内で使用された悲劇の男性の物語は少なすぎるほどですが、2007年に発表されたインディーのタイトル、Aquariaでは主人公のナジアが水中を冒険し、寿司を作り、彼女の過去を学び、そして最終的には彼女の恋人のリーを救います。

では伝統的な女性を無力化する物語とこれらの、男性のキャラクターが女性に助けられる物語の違いは何でしょうか?

表面的には、それらの悲劇の男性とDamsel in Distress(ダムセル・イン・ディストレス)は同じように感じられます。しかし、これらは実際は同じではありません。何故か理解する為には、私達はこの2つのプロットデバイスを大まかな歴史的、そして文化的な意味合いを考えて分析しなければなりません。

最初にヒーロー的な男性が活躍するゲームは多数製作されている事、もしくはゲーム以外のクリエイティブなメディアでも同様である事。実際、最近の調査では現在作られているタイトルの4%が女性を真の主人公としてデザインされているとの結果があります。男性は未だ広範囲でデフォルトの主人公なのです。レアな悲劇の男性のプロットラインは長い歴史の中で培われてきた性的役割を物語の中で確認する事にはなりません。

2つめに、そして非常に重要な事として、Damsel in Distress(ダムセル・イン・ディストレス)は女性が弱く、そしてその性別ゆえに常に助けが必要だという退行した考え方を助長するものとなるからです。しかしたまにある助けの必要な男性のキャラクターは、男性の性に対するネガティブな印象を助長してはいません。


え?役割の男女逆の物語は良いんすか?(;・∀・) とも思ってしまいますが、これは結局男は長年性的役割でいい目を見て、物語の中でも良い役割を楽しんできたんだから、性的役割が逆の物語だ出てきてもちょっとは我慢しろみたいなもんでしょうか?ここらへんのバランス感覚が日本とは違う所がポイントですね。

日本だと男性がして駄目なら女性がしても駄目みたいに思うんですが、そうとは必ずしもならないのが欧米的な考え方の中にある気がします。不公平だ!と日本人だと思うかもしれないんですが、あちらの方々に言わせるとそうでもないらしいです。歴史的なものが絡んでいるので今の時点で平等にするのは不公平になるとか何とか説明されましたね。自分的には納得していないんですが・・・・。

この特別なバランス感覚が、色々な面で日本人には理解できない事が多いというか・・・。(;´Д`) 海外で理不尽な目にあわされたと感じる時の多くの場合にこのバランス感覚が関連していることが多いですかね。何であいつらは良くてこっちは駄目なんだよ!みたいな事態ですね。フェミニズムとかは関係なく。また閑話休題となってしまいましたが。まあ、あまり堅くないダラダラとした読み物にしたいんで話が飛ぶこともあります。


さて、サーキシアン氏はこの後、インディーゲームのSpelunkyを例に出します。このゲームは2012年にHDでリメイクされXBOXライブでリリースされましたが、その際にゲーム内のDamsel in Distress(ダムセル・イン・ディストレス)が選べるようにいなっており、金髪の女性、チッペンデールスタイルの男性、犬の3つもしくはその全てから選べるようになっています。何故このDamsel in Distress(ダムセル・イン・ディストレス)となった女性の表現が問題なのでしょうか?それは悲劇の女性は性別により役割の特定を助長しますが、チッペンデールスタイルの男性は男性の性別の役割の確定を助長しないからだとも説明します。


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最近、多くの古いゲームのファンによりクラシックなゲームの男女の役割を逆にしたMODが見られるようになって来ました。マイク・ミカ氏のドンキーコングのハックではポーリンがジャンプマンを助ける為に動きます。マイク・ホイ氏のウィンドウェーカーとケナ・ワーシンスク氏のゼルダではゼルダ姫が主人公となっています。

これらの性別を逆にしたMODは既に10年前からあるもので、プレイヤーが女性版のメガマンとしてプレイしたり、ピーチとしてマーメイドパワーを使用してマリオを助けたりして楽しむ事が出来ます。インターネットのおかげで、これらのゲームにアクセスする事は結構簡単にできるようになっていま
す。これらの性別を逆にしたMODは女性キャラクターがヒーロー的な役割を取って、ゲーム業界内で行われているマッチョな考え方の蔓延に反するものであると言えるでしょう。

しかし、私は悲劇を両方の性別に与える事がこの問題の答えであるとは思っていません。

単純に問題のある性的役割の使い方を逆にして、もっと多くのゲームで男性が悲劇的な役割を持って行くのは、長期的な観点でもっとも効果的な解決とは言えません。それが例えメディアにおける悲劇の面での現実的な性別の描き方に短期的に効果があるとしてもです。

最終的には、私達は皆で使い古された表現から脱出しなければならないのです。


この部分で氏がまともな人物だとわかってホッとするところですかね。(;^ω^) 結局、結論は前回でも論じられていた部分から導かれているのがわかります。パターン化された道筋から出られなくなって、考える力をなくさせる方向で物語りに納得させるのではなく、物語りを演じる人々の言動にちゃんとした意味を持たせて人々の心の中にある感情に響かせられるオリジナリティーのある物語を作る事を試みよう。との答えです。

これはフェミニズムだけでなく色々な意味で物語を作る上で非常に大切なものになるのではないでしょうか?

今日はここまでにします。次回はクラシックなゲームが最近のゲームに悪影響を及ぼす部分の例とそうではない良いゲームも紹介していくエピソードとなります。